COMMENT

還暦を過ぎ、それなりに見てきたし、経験も重ねた。
しかし、いまだに「見える、見えない」を気にしている自分がいる。
エロ(ス)というものの悩ましさに思いがけないアングルで向き合う経験になった。

保坂和志さん(作家)

これは距離感の映画だ。
他者との。自分自身との。生との、 死との、性との。
矢崎監督の映像世界の中ではいつも、死は強く、生はさりげなく、愛はあやうい。
何も持たず生まれ、何も持たず死ぬとしたら、 愛はどこへ行くんだろう。
フィルムに映る/写るものの中に、 その答えがあるのかもしれない。。

狗飼恭子さん(作家・脚本家)

女性性器を撮り続ける写真家の物語、
というより自分の性器を撮らせることに執着する女性の物語というべきだろうか。
フロイトが不気味(ウンハイムリッヒ)なものの核心に据えた女性性器という原郷(ハイム)へのアンビヴァレントな感情を底流に、しかし映画はあくまでも静謐に、デュシャンやバルテュスなどのイメージを忍ばせながら、そうまさしく「静物画(スティルライフ)」をめぐる物語のように展開する。
美しい自然が印象的な一篇の象徴詩のような作品である。

谷川渥さん(美学者)

花はなぜ咲くのだろう。
咲いた花は、きっと散る。
その摂理におののき、矛盾を噛み締めながら、
女たちは、生と性を謳歌する。
きっと男なんて、本質的に必要ないのだと思う。
ただ、母と娘だけがいれば、生命は続いていくのだ。
だから無為に、この男はシャッターを切る。
矢崎監督の映画には、ただ憧憬あるのみ。
その背中、影にさえ追いつけないと、口惜しくも、また思った。

七里圭さん(映画監督)

やっぱり矢崎映画のこだわりは半端じゃない。
まったく動かない肉体ですら何とテンションが漲っていることか。
水面にゆれる光、靴に踏まれる枯葉の音、すべてが目に、耳に、心に刺さる。

西村隆さん(「三月のライオン」プロデューサー)

静かに繊細に、そして過激。
矢崎監督ならではの映画だ。

森重晃さん(映画プロデューサー)

奇妙な儀式の反復によって次第に昂じる男性写真家と女性の欲望は、エクスタシーへの到達を禁じられることで宙吊り状態に置かれる。私たちは相手の身体を求めるのか、それとも写真の完成を望むのか……。より純粋な相貌のもとにある欲望は、性的な欲望と表現への欲望を見分け難くし、そんな欲望一元論の立場が映画作家の「現代性」の証しなのだ。成就されないがゆえに燃え上がる欲望と、未完のままに止まることを望む作品。本作は矢崎仁司にとっての「映像要理」である。

北小路隆志さん(映画批評家)

私は試写会を観た後、世界に引き込まれてしまって、なかなか現実に戻れなかったです。 変性意識のような不思議な感覚でした。トンネルが、子宮からの産道なのか、黄泉の国へ続くのか…

市川和子さん(テディベア作家)

キュレーターである怜は、おそらく接触障害であり、同時に摂食障害である。乳児のとき母親の充分な母乳で育てられなかったか、おむつ替えがきちりと成されなかった可能性が高い。おおかたそういう人間は大人になるとアトピーやアレルギー性皮膚炎など皮膚疾患を生じやすい、、と言われている。
すでに痴呆になってしまっている母親のおむつ替えをしてあげる場面が、後半に登場する。ここは自身が幼児期に成されなかったことを、今度は反対の立場で施行する。いわば経験できなかったことをやり直す行為。経験の語り直しをしていることになる。
入院中の怜の母親は育児放棄をしていたのではなく、もしくは怜の実母ではない可能性か、もしくは成人してから初めて出逢った実母だったのかもしれない。
自然界には他種の巣に卵を産み落とし、産まれた幼動物はもともとそこに産み落とされた卵を巣から次々と追い出し、何気ない顔で他種の親に育てられることがある。托卵だ。
この母娘の関係の奥底には、そんな非人道的に見える、しかし歴とした自然界の生存本能が横たわっているのかもしれない。
湖の底にはいったい何があるのか。小舟が浮かぶ静謐な鏡面のような湖面は皮膚疾患を覆い隠し、曇天のみ映し出す。
春馬とて捻れた精神構造であることは間違いはなく、お互いの傷の治癒を目指していく物語である。語り直しによる芸術の治癒効果は、その存在意義と役割を高らかに主張する。
私たちが辿り着くラストはすべての始まりであり、私たち自身、身に覚えのない出口でも入口でもある。映画はその覚えのない経験の語り直しを見る者全員に要請する。

ヴィヴィアン佐藤さん(美術家、ドラァグクイーン)